みなさんこんにちは。セシル・エ・ジャンヌの代表を務めております、新田 朱(あかね)と申します。

最近は社内の仕事が多く、あまり店頭にも立てずにいるのですが、イベントやお店で実際に接客させていただいた方も中にはいらっしゃるかと思います。(ショートカットのハスキーボイスが特徴的でネイルは決まって赤!)

なんだか来年は東京オリンピックだと浮き足立っていた昨年からは思いもつかないような大変な世の中になってしまいました。こんな時期だからかもしれませんが、人と人との心のつながりの大切さを日々痛感するようになりました。

セシル・エ・ジャンヌはフランス、パリのいわゆる大手とはちょっと違うブランドです。アットホームな人の温もりが感じられる距離感を大切にするとでも言いましょうか。そうしたブランドだからこその、素敵な商品を生み出すデザイナーや職人の想い、様々なストーリー、私自身のエピソードなどをこのブログを通じてお伝えし、みなさまによりブランドを身近に感じていただければと思います。

まずは私がセシル・エ・ジャンヌというブランドに出会うきっかけになった出来事を少しお話しします。これまでの人生を振り返ると(という年齢ではありませんが)、寄せては引く波のように、良いこともあれば悪いこともあるの繰り返し。とは言えその波を受けて立つ力を持てるかどうかは、人との関係性をいかにして築いていくかによって大きく変わるものだと確信しています。これまで様々な方との「出会い」というご縁を頂いてきたわけですが、良くも悪くもその都度このご縁に何の意味があるのだろうと考え、そしてこの「出会い」は決して「偶然」ではなく、自分にとって「必然」なのだと捉えるようにしています。

セシル・エ・ジャンヌ好きが高じた私がこのブランドをビジネスとして日本で扱うことになったのは、とある一人の社長とのご縁のおかげであり、その出会いから全てが始まったと言っても過言ありません。まずはこの社長との出会い、次にパリでセシル・エ・ジャンヌといかに巡り会ったのかをお話しさせて頂きます。その後は会社の名前の由来、素敵な占い師との出会い、パリの好きなお店、デザイナー
ジャンヌとの出張時の打ち合わせの模様=異文化コミュニケーションの難しさ・楽しさ、などなどアトランダムにお話ししたいと思います。(エピソードはたくさんありますよ。笑)これから少々長くなりますが、どうかお付き合いいただければ幸いです。

よく、みなさまからセシル・エ・ジャンヌを始める前は何をされていたの?と聞かれますが、大学を卒業してからはまず旅行代理店関係の仕事に就き、その後医学書の出版社で版権業務に携わってきました。幼少の頃に父の仕事の関係でドイツとイギリスに住んでいたこともあり、社会人になったらヨーロッパに関わる仕事がしたいと思っていましたが、大手旅行代理店での勤務は1年も続かず。(元々組織の中で足並み揃えて仕事をするタイプではなかったので、それも苦痛でした・・・)転職を考えていた頃、ジャパンタイムズの求人欄でたまたま目にしたのが、ドイツの見本市(企業展示会)に出展する日本企業を顧客とした、出張パッケージやホテルの予約手配、現地コーディネートを行う、社長含めスタッフわずか3−4名の小さな旅行代理店の募集広告でした。

見本市の会場としては日本では東京お台場のビッグサイトが有名ですが、ドイツの会場は規模が段違いです。ビッグサイトが1号館だとしたら、それが10号館くらいあるようなもので(場内に無料のシャトルバスが運行するほどの広さ)、その当時はフランクフルトブックフェア(出版の見本市)やハノーバーのCeBIT(I情報通信技術)が有名でしたが、今でもドイツの見本市へは世界各国から年に数十万社、数千万人規模の来場があるようです。

とは言え、ドイツはフランクフルトやハノーバーといった大きな都市であっても市内や会場近くに宿泊できるホテルの部屋が限られているため、見本市会期中は、部屋の価格が高騰し、ネット予約が現在ほど浸透していなかったこともあるかもしれませんが、その当時は非常に予約しづらいというのが実情でした。そこで私が勤めた代理店では、数年先まで会期中のホテルの客室をあらかじめ抑え、その見本市に参加する企業に向けて、往復の旅券を含め会社ごとに出張パッケージを組み手配する、という仕事を主にしていました。

わずかスタッフ3−4名でしたが、この会社のいわゆるベンチャー的な気質が自分に合っていたのか、私自身ここで初めて「仕事」の面白さを知ることになったのです。繁忙期は時間も忘れるほどに仕事に没頭し、明け方4時まで会社に残ることもざらでしたし、休日出勤も惜しむことなく、何よりも仕事に「やりがい」を持ち「達成感」が得られるという初めての経験は当時の私にとって貴重なものでした。年に3−4回、担当する見本市の開催に合わせ、ドイツへ出張に赴く際はありがたいことに会社が許可を出してくれましたので、月曜からの仕事の前々日の土曜日に現地に入り、日曜は自由に現地で過ごしておりました。

実はこの社長(当時恐らく70歳は超えていたと思いますが)、オペラやクラシックが大好きで、サントリーホールで定期演奏会があるNHK交響楽団の会員でもあったため、ほぼ毎月音楽会に連れて行ってくださいました。社長の住まいは神奈川県の大船で、一度お邪魔したことがあるのですが、外観は上品な淡いレモン色のような黄色で、イングリッシュガーデン風の広いお庭のあるヨーロッパに迷い込んだかのようなご自宅でした。社長が会社に不在の時にご自宅に電話をすると、電話越しにクラシック音楽が聴こえてくるのが今でも思い出されます。

私はそれまでクラシック音楽とは無縁でほとんど聴いたことがなかったのですが、この社長との出会いがきっかけで感化され、その後すっかりはまってしまいました。社長の好きな作曲家はモーツアルトとブラームス。とりわけ、ブラームス作曲の交響曲第1番は大のお気に入りで、「これを聴くと僕は人生やり遂げたって思うんだ!」と少年のように話していたのを覚えています。そして、今では私もあの時の社長と同じように、くじけそうになった時に自分を奮い立たせる曲がこの通称「ブラ1」なのです。曲の特徴は「暗から明へ」と表現されるそうですが、特にフィナーレで繰り返される、闇から明るい光明へと突き進むかのような、これでもかこれでもかっ!といったあのグイグイとクドイ感じがなんとも快いんです。何度転んでも這い上がる勇気を与えてくれるようで、その先に差し込む光=希望を感じさせてくれます。聴いたあとになんとも言えない充足感をもたらしてくれます。(百聞は一見・聴にしかず、未聴の方はよかったら聴いてみてください。個人的にお勧めはベルリンフィルのカール・ペーム版です)

私をそんな新しい境地に導いてくださった社長が、今度ドイツ出張の後にウイーンで小澤征爾指揮のオペラ「フィガロの結婚」(モーツァルト作曲)を一緒に観に行くつもりだからその予習を兼ねて、ということで東京文化会館で上演されるオペラ「ラ・ボエーム」(プッチーニ作曲)にご招待くださいました。その頃の私はクラシックの良さが少しずつ分かってきてはいたものの、普通に会話していた登場人物がいきなり歌い出すというオペラには少し抵抗感がありました。(予習の予習用にと)事前に渡されたビデオを鑑賞しましたがその時は何も感動はなく。というわけで当日東京文化会館へ赴く足取りも重く。そんな経過をたどりいよいよ上演開始。生まれて初めての生オペラが目前で展開されるわけですが、それはビデオとは全く異なる別次元のもので、これは本気で向き合わねば、と舞台と相対しました。繊細かつ感傷的なオーケストラの音色と歌手の歌声、舞台そのものがなんとも感動的で、感情の高ぶりが押さえ切れず幕が閉じた頃には涙が止まらず号泣していました。

それからというものすっかりオペラの魅力に取り憑かれ、ドイツ出張のたびに週末を利用しては、一人でオペラを鑑賞するという、今振り返るととても贅沢な20代を過ごさせていただきました。

オペラのストーリーはいたってシンプルなものが多いのですが、そこに歌や音楽が加わるとなんともドラマチックに変化していきます。作曲家はモーツアルト、プッチーニ、ロッシーニと様々な作品を観たり聴いたりしてきましたが、今はイタリアのヴェルディが一番のお気に入りです。好きなオペラのお話は別の機会でじっくりさせていただきますね。

良いこともあれば悪いこともある、小さな会社あるあるが原因で色々と揉め、結果的にその会社も数年で辞めることになったのですが、振り返りますと今ここにこうしてある自分が最も影響を受けたのがこの会社の社長であり、その社長との出会いがあったからこそ、セシル・エ・ジャンヌを手がけることに繋がったのだと思います。「君は男みたいな性格だから僕とは気が合うね」は社長の口癖、よくランチで連れて行ってもらった洋食屋のおかみさんには、この人は僕の同志なんだ、と話していたのを懐かしく思い出します。(ちなみに、この社長とよくランチで行った虎ノ門の平五郎という洋食屋は20年経った今でも健在!何から何まで絶品なのでオススメです。今では主人も気に入り、夫婦で伺ったりしています。)

社長は数年前に他界したと風のたよりで聞きましたが、なんとなんとこの方、私が会社を登記した日に幽霊(生霊?)となって私の目の前を通り過ぎたのです。(このエピソードもまた今度!)

次の回では、社長からご褒美として、出張後に休暇をつけてヨーロッパの好きな場所に行っても良いと言われて選んだパリ、そこで出会ったセシル・エ・ジャンヌのことについてお話ししたいと思います。